帰って来た酔っ払い
私の働く店には十年来の常連である小野さんと云う女性がいます。年齢は五十歳前後、二度の離婚のあと息子達とも生き別れ、現在は遠い親戚のもとに寄寓しているそうです。自らの拵えた手芸品を路肩で売る事で糊口を潤しています。以前は看護婦であったとも聞きました。
いつもの事なのですが小野さんは強かに酔って今日も来店してくれました。しかし暫時大人しくしていたかと思ったら、突然、或る程度心安い私に向かってクダを巻いて来たのです。
理由は語るのも詰まらない程度の事なのですが、それが為に私は三十分を彼女と云う個人にのみ諦めなければならなくなりました。
酔っ払いの話ですから理論は通じておらず堂々巡りを繰り返すのみです。辟易を過ぎた私は業腹を覚えて自らが許容する範囲で罵倒を発してしまいました。
それでも彼女はくだくだしく毒を吐きながら当分を費やす事に慰めを見出したようでした。
私は以降彼女の存在をただ無視し続けました。
一度席を外した彼女は戻って来るなり憔悴し切った態で語り始めました。
今日仕事を辞めて来た旨……信じていた人に裏切られた事実……金銭が人間を悪にする蓋然……他人に当たらざるを得ない自らの浅ましさ……
私は仕事の手を休めずに聞いていただけに過ぎません。憐憫の情が募る事こそが他人への差別であり、それが弱者を生み、自己に優劣を与える醜悪だとする私には何を語る事も許されていなかったのです。
小野さんは劣化したマフラーを忘れ物とだけして帰って行きました。
それからは閉店までは忙しく立ち回り時間が経過しました。
確認の為にトイレをノックしたところ誰かが残っています。「そろそろ終わりですよ」とまで語った私はもしやと思い扉越しに誰何すると、それが小野さんである事が知れました。
「ありがとう」
これが再び現れた彼女の第一声でした。一時間ほど籠もっていたトイレの中で、全てを無に帰そうと自らの指で嘔吐を繰り返していたそうです。仏教の或る宗派に属する彼女ですから、この行動の意味は私にも理解出来ました。
「店長の終わりですよと云う言葉で最初からやり直せるような気がしたの……」
彼女は涙を流しながらマフラーを受け取ると、もう一度「ありがとう」と云い帰って行きました。
激しい自己嫌悪とささやかな自己再生を繰り返して生きて来た彼女は、これからもきっと今迄の循環の中でしか生きて行かれないでしょう。一度折れた翼は二度と涅槃への飛躍を約束してはくれません。入手出来るものは無間地獄への堕落のみです。それでも再生を信ずる彼女には憐憫をしか感じられませんでした。
一部始終を見ていた汚れたトイレを掃除しなければならないアルバイトの大学生が冷たく云い放ちました。
「死ねばいいのに……」
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