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2010/03/27

恋愛相談室 5

会社員ヒロシ(27 )の相談

 「心」とは一体どこにあるのか、またはどんなものを指す言葉だとお考えですか?
 
 分かり易く説明する為に、医学的または精神学的根拠を無視した形で進める事をお許しください。私の独断が考える「心」とは後頭部の少し上あたりに存在しています。
 私たち人間が平生に何気なく取る行動のひとつひとつには、そうしなければならない確実な理由がある筈なのです。息を吸って吐かなければ生きて行かれないと云う当たり前の行為さえ、自然か偶然か脳が見付けた必然であり私たちに下す命令に過ぎません。生きる為に必要な行為だからこそ、当たり前の事としてその理由をお座成りにされてしまっているだけなのです。しかし、能動である以上は意識下であれ私たちの脳が促す行動を、結果として体現している事になるとして良いでしょう。
 それではこれを踏まえた上で貴方の「一目惚れ」について再度検討して行く事とします。

 昨夜の事、会社で催された飲み会の帰り道での出来事でしたね。適度な酔いを纏い徒歩で帰宅する途中の貴方は、自転車が故障したらしく一人で往生している若い女性を見掛けた。結局は手助けも何もせず打ち遣って通り過ぎてしまったものの、家に帰り着いたあとも彼女の姿が網膜の裏から消えず、胸に込み上がって来る或るものを残留させた……。
 貴方はこの症状を「一目惚れ」の為せる業だと判断した訳です。そうであるならば以下のような考えが脳裏に浮かんだ事でしょう――

どうして何もせずに通り過ぎてしまったのだろう……
困っている女性を夜の街に一人残してしまうなんて……
大概であれば自分にでも修理するくらいは出来た筈なのに……
彼女は以後無事に帰宅出来たものだろうか……
あのまま如何ほどの時間を消費させたのだろうか……
きっと一人きりで不安であったに違いない……
どうして自分は彼女を他人として扱ってしまったのだろう……

 推察通りのようですね。そうして貴方は「心」が靄掛かったかのように苦しくなったのではありませんか? そうでしょう、これもまた推察通りの筈です。
 それでは貴方のお望みである「心」の在処を探って見る事にしましょう。目をお瞑りなって私の言葉を映像としてイメージしながら進みます。

 お瞑りになった視線の先を眉間から折り返すように脳内に向けましょう。暗黒にも見える小宇宙ではありますが、ゆっくりと進むに従って細かく枝分かれした糸のようなものが見えて来ます。これが伝達神経と云うものです。神経は奥に進めば進むほど多くなり、複雑な枝葉を延ばして絡み合って行きます。
 よく見ると神経の一本一本からは光にも似た信号が発せられています。奥から発せられた光は神経の先端まで進むと消滅し、また奥の方から暇なく循環しては消えて行きます。こうした光の行き着いた先が肉体の行動として貴方の四肢を動かしているのです。
 さて次は小宇宙から脳髄の地表へと近付いて行きましょう。赤みがかった灰色の表面に細かな溝が多く確認出来るかと思います。ここにも神経の光と同等のものが蠢いていますね。大きな光、小さな光、早い光、遅い光、目映いほどの光、鈍い光、様々な信号が忙しく行き交うさまが見て取れるでしょう。これが理知とも云える貴方の思想や考えを構成する神経です。また赤く光っているのが動物的本能に近く、青く見えるものが道徳的な理知の光と云えます。基本的に赤い光が強く激しく瞬間的で、青い光はゆっくりと鈍くではありますが長い時間光っているようですね。そうして溝全体が輝き続けているものは、入手したばかりの知識が新しい溝を掘り進んでいる証拠となります。信号の多くはこれまでに作られた溝を進みつつ自らへの確認を肯うと、大小の行動へと変換される仕組みであるようです。
 あちらこちらに出ている火花を確認出来ますか? 脳の信号は単純に同一線上を進むものとは限りません。隣り合った神経や交差している神経に、出所の違う信号が誤って進んでしまう場合も少なくないのです。誤ってとは云いましたが、これが悪い事とは云われません。発信地点の異なるものの最終的に行き着いた先にある思想、行動が貴方と云う人間の個性を形成していると云えるからです。
 それでは、脳髄のもっと奥まで進んで行く事としましょう。神経の糸が多く縒り集まって行きます。脳髄の溝が吸い込まれるように複雑になって行きます。様々な色の光が絶え間なく輝いて明滅しています。そうです、ここが人間を司る原子炉とも云える「心」そのものなのです。ここではもう神経の糸や脳髄の溝を確認する事すら難しくなっています。複雑に絡み合った無数の糸を紐解くのは困難な事業に他なりません。信号ひとつひとつの出所を個別に知覚する事が困難だからこそ、この曖昧な神経の伝達を世間は「心」と呼ぶのです。
 全くの無でもなく完全に知り得ない貴方個人にのみある脳の閃きが「心」であり、貴方個人が所有する以上は全責任を負わなければならない無形の所有物、それが「心」の正体と云う事になります。
 心変わりだろうが、気分次第だろうが、何気なくだろうが貴方自身の経験や知識、ひいては生まれ持った性格から導き出される知覚し難いだけの信号なのです。

 さて次に貴方の心が感じた「苦しみ」のもとを探って見る事としましょう。今一度目をお瞑りになって昨夜から感じている胸に残る蟠りをお捉えになってください。
 これは容易い事業でしょう。自転車の彼女を思い浮かべるだけで認識出来る感情である訳ですから。そうです、彼女が立ち往生している様子を考えればもっと容易に入手出来る感情です。
 それは胸に広がる鈍い靄みたようなものだと思われます。その中に貴方の全神経を漂わせてから、集中する事で靄の中心へと進みましょう。外界との接点であった靄は徐々に小さくなって行きます。貴方は貴方自身の「心」に少しずつ近付いて行こうとしています。靄の終点にあるのはか細い一本の伝達神経です。その神経を遡ってもっと「心」へと近付いて行きましょう。真実の邪魔をする切ない神経を丁寧に選り分けて進みます。邪魔をするものは社会的道徳、綺麗事、思い込み、偽善、虚栄心、貴方自身の作られた道徳……それらに惑わされず進むのです。
 脳髄にある「心」へ近付けば近付くほど「苦しみ」の意味が判然して来たのではありませんか? 貴方がいま見ているものは彼女の裸体であり、甘く悶絶する肉体である筈です。そうです、貴方を苦しめていたものは動物的本能からなる焦燥に他なりません。彼女は貴方の理想とする容姿を持っていました。手助けとは下心を隠すだけの言語的表現に過ぎません。貴方はただ彼女と云う謝礼を欲していたのです。貴方の通り過ぎたあとに他人が謝礼を受け取る可能性を考えたのです。同じ謝礼であるならば、どうして自分が受け取らなかったのだろう……。

 これが貴方の心を苦しめていた原因です。貴方と云う人間の醜悪さを確認するだけの結果となってしまった点については、求められた事とは云え遺憾の意を表しておきたいと思います。

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