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2010/04/04

恋愛相談室 7

相談室受付エミコ(22)の日誌

 今日も小屋さんが来院しました。しばらく顔を見せなかったのですが、今週に入ってからはほぼ毎日現れて、待合室でカップ酒を飲みながら数時間を過ごして帰って行きます。
 患者さんがいなくなると診察室に無断で入り、盗み聞きしていた先生の診断に文句を付けたり、なにか下品な冗談を云っては声高に笑い皆を困らせています。
 先生の話だと彼女は十年来の常連(?)だそうです。年齢は五十歳を少し越えたくらい、二度の離婚のあと息子さんたちと引き離されて、現在は遠い親戚のもとに寄寓しているとの事。定職には就いておらず、自らの拵えた手芸品などを路肩で売って生活費を稼いでいるようです。手芸品とは云っても、拾った空き缶で作った灰皿や街頭で集めたポケットティッシュなどを二束三文で売っているのですから大した稼ぎにはなっていないと思います。
 私も一度情けを見せてしまったお陰で、使いもしない灰皿を毎回勧められて困っています。先日などは当院から持ち帰ったポケットティッシュを買わされそうになったくらいですから。

 今日の小屋さんもいつものように泥酔して現れました。それでも珍しい事には受付のソファに座ってただ大人しくしています。俯いて首を垂れていたので大方眠っているのだろうと思っていたのですが、他の患者さんがいなくなったと同時に、或る程度心安く思われている私に向かって来てクダを巻き始めました。
 私個人への文句や暴言ではあったものの、心当たりのない事ばかりを責められるので理不尽さだけが募りました。またその為には自分を通り越した先にある何かを非難しているのではないかと云う頭も働きました。
 騒ぎに気付いた先生があとを引き受けてくれたので助かりましたが、診察室でも小屋さんは先生に向かって不特定多数への文句を云っているようでした。
 私たちのお昼休みが潰された形となっても小屋さんの文句は留まるところを知りません。そのうちに患者さんが来院し始めたので、先生がいつになく厳しい口調で小屋さんに帰宅を促しました。小屋さんは診察室を出たものの受付のソファに座りぶつぶつと独り言を続けています。
 先生の配慮から手の空いた隙に私はコンビニへお弁当を買いに行きました。戻って来ると小屋さんはもういません。大方、文句をぶつける相手がいなくなったので帰ってしまったのでしょう。ソファには小屋さんのものと思われるマフラーだけが残されていました。私はそのくたくたに劣化したマフラーを丁寧に畳んで、次の機会には笑顔で返してあげたいと思いました。
 それからは患者さんが多く来院されて診療時間の終わるまで忙しく立ち回りました。先生が夕飯とも云える遅い昼食を取っている間に、私はカルテの整理や細ま細まとした後片付けを済まし、当番となっているビルの共同トイレを掃除しに行きました。
 洗面台を清掃し床にモップをかけていると女子トイレの扉に鍵が掛かっています。不思議に思いノックしてみると、中から低い呻き声が聞こえて来ます。私は怖くなってすぐに先生を呼びに行きました。
 先生は今一度ノックして人の所在を確かめると、私に困ったような笑顔を見せてから、扉へ向いてこう云いました。
「小屋さん、そろそろ終わりですよ。よろしいですか」
 私は吃驚しました。まさか数時間も前に帰った筈の小屋さんがそこにいるとは思わなかったのです。
 激しい嗚咽が暫く続いたあと、水洗の音とともに小屋さんが出て来ました。
「ありがとう」
 これが第一声でした。その後は堰を切ったように最近の事件を語り始めました。小一時間はあったかと思われる話の内容なのですが、不明瞭なところがあったり前後して矛盾も少なからず見受けられたものの、大体は以下のようなものでした。
 愛している男性に預けていた金銭がいつの間にか使い込まれていた。それは二人で商売をする為の軍資金であった筈なのに、他の女が横から現れた末に消費させられたのに違いない。信じていた人に裏切られた悲劇と、金銭が人間を悪に変えてしまう実際の虚しさ……。そうして他人に当たらなければ遣り切れなかった自身の浅ましさを呪い、全てを無に帰そうとしてトイレに籠もり自らの指を使い嘔吐を繰り返していたと。
「でも先生の終わりですよと云う言葉を聞いてやり直せるような気がしたの」
 小屋さんは嬉しそうに涙を流し、恥ずかしそうに涙を拭きながら「ありがとう」を繰り返します。
 私がマフラーを取りに戻っている間に小屋さんは帰ってしまったようです。先生によると小屋さんは知り合った十年前から、このような激しい自己嫌悪とささやかな自己再生を繰り返して生きて来たのだそうです。彼女がこの循環から逃れる術はないのかも知れないとも続けました。それを聞いた私の表情を見た先生は「それでも再生を信じる人に憐憫を感じ取っては失礼にあたりますよ」と嗜めの言葉を掛けてくれました。診療所へ戻る先生の後ろ姿を見送りながら「確かにそうかもしれない」と反省した私ですが、汚れたトイレを掃除しなければならない事実に突き当たり、小屋さんのマフラーを握り締め一言だけ云ってやりたくなりました。

「死ねばいいのに……」

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